9年間暮らした東京を離れ、いきなり故郷に帰ることになってしまった。
原発事故さえなければ今も東京で暮らしていただろうから、人生は一体何が起こるかわからない。
東京での生活が充実してきた矢先だった。素晴らしい友人たちに恵まれた交友関係は楽しかったし、面白い会社での勤務が始まったばかりだったのだが、3.11以来、連日の余震と被曝の恐怖感で私のストレスは極限にまで達していた。
毎日、実家の母の顔が浮かんでくる。とにかく母に会いたかった。
大分県の実家に戻ると決断してから一週間のスピードで引越しを済ませ、私はニートになった。4月半ばのことだ。
別府は平和だった。
しかし、毎日インターネットをする以外は、何もやる気が起きない。喪失感と先が見えない不安感でいっぱいで、本を読む気にもなれない。
そんな中、地元の氏神さまの神社にご挨拶をしなければという思いがあった。
近所にありつつも、小学生の時以来まったくお参りに行っていなかった、天満天神社。ここへ向かう道の途中に「大友義統本陣跡地」という案内がある。
さらに道を進むと、古戦場解説碑がある。今までまったく見向きもしなかったのだが、ここは西の関ヶ原と言われた「
石垣原の合戦」で重要な場所だったのである。
「石垣原の合戦」とは、西暦1600年(慶長5年)の秋、西軍(豊臣方)の大友義統と、東軍(徳川方)の黒田如水による戦いだ。
この戦いによって、徳川家康の九州覇権と、約400年に亘って豊後(現在の大分県)を支配した戦国大名・大友氏の終焉が決定付けられたのだそうだ。
その事実を知った途端、正直、イヤーな気分になった。風水の知識がある人ならご存知かと思うが、古戦場跡地は凶とされているからだ。しかし、激戦区はうちの近所とは別の場所だし、別府は全体的に古戦場だった訳だし、実家はお祓いされているので、そんなに神経質になる必要はないのかもしれないが。
大友本陣跡地の後方にある天満社は、鎮守の森といった趣で、あまり人影もなく、鬱蒼としている。京都の北野天満宮から分祀されているようだ。
私は疑問を持った。なんで先人たちはここに菅原道真公を鎮祭したのだろうか?
その後、近所に住んでいて家族ぐるみでお世話になっている、神社の神職の資格を持つ霊能者のおばあさんのもとに話を聞きに行くと、「石垣原の戦いに勝てるように、ここにお祀りしたみたいよ」と言う。
この真偽は定かではないが、もし本当ならその判断には首をかしげてしまう。菅原道真公を祀ることで戦勝祈願のご利益があるようには思えない。豊後には、八幡系神社の総本社の宇佐八幡宮があるわけだし、こっちを信仰した方がよっぽど戦に勝てそうな感じがするのだが…。
そんなことを考えつつ、よくよく調べてみると、大友義統の父で、キリシタン大名として有名な大友宗麟は、宇佐八幡宮を2回も焼き討ちしていたらしい(宗麟の妻は奈多八幡宮の神官の娘だったというのに…)。
凡将、臆病、無能という評価をされていた戦国大名・大友義統は、一体どんな気持ちで菅原道真公が祀られた天満社を後ろにして本陣を構えたのだろうか。
大友家のあれこれや石垣原の戦いについて知ることで、なんだか微妙な気持ちになってしまったのだが、この天満社が氏神さまであることは抗いようのない事実なので、ここに住み続ける限りは大切にしなければなるまい。
私は、参拝者が少ないこの神社を活性化させることが大事に思えたので、気づいた時にできる限りお参りして、祝詞を奉唱することにした。
これまで祝詞にはほとんど関心がなかったのだが、大祓詞の言霊は心境的に今一番しっくりくる感じがする。
大祓詞 口語訳
今起こっている、原発事故で放射性物質が巻き散らかされる事態は、大祓詞でいう「国つ罪」によって引き起こされたように思えて仕方がない。差し詰め、放射性物質は日本人の集合意識が生み出した「罪穢れ」の顕現ではないだろうか。また、内部被曝対策は、ある意味「祓い清め」と言えるのではないか。
神道という日本人の原点に立ち返って、それぞれが自分の中に存在する祓戸大神を覚醒させるべき時が来ているのではないかと、祝詞を奉唱しながら考えていた。
……掛けまくも畏き伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等 諸諸の禍事 罪 穢有らむをば 祓へ給ひ 清め給へと白す事を聞こし食せと 恐み恐みも白す……